決めないという怠慢
こんばんは。
人生は選択の連続
こんな言葉を聞いたことがある人は多いと思うし、実際そう感じたこともあるのではないか。
些細な選択から人生を左右する大きな選択まで様々だが、必ず選ばなくてはいけない、あるいは、判断を求められるといったことを経験する。
では、こんな時、どうしているだろうか?
・恋人とのデートはどこへ行こうか?
・明日の朝/昼/夜ご飯は何にしようか?
・進路はどうしようか?
・選挙では誰orどの政党に投票しようか?
なんとなく気が赴くままにとか、なるようになるっしょとか、この選択肢が人気だからとか、結局自分では何も決めなかった、なんてケースもあるのではないか。
特に自分で決めたと錯覚しがちだなと思うのは、ネット評判なんかを見て決めるというケース。一応ネットで調べて決めました感が生じるのだが、人気のあるものに飛びつくというのは、自分で決めたとは言えない。
まぁ、人気の高いものを選んでおけば自分も気に入る確率が高い、という考え方はある程度理解はするが、選択肢の本質的な部分を見て判断しているとは言えない。つまりは、他人に決めてもらっているのと同じだ。
よく職場なんかでありがちなのは、「”~~さんがコレでOK”と言っていたのでコレを選びました」とか言っちゃうケース。結局のところ、本人は決めた理由、根拠、考え方については理解しておらず、完全に他人の受け売りになっている。
自分では決めず、他人に決めてもらう。
これって、思考停止している状態で、考えるということを放棄している、あるいは、怠けているのと同じような気もする。
他者の意見も尊重してとか、取り入れてとか言うと聞こえはいいが、協力という言葉の陰に隠れて手を抜いているだけ、という状態に陥らないようにしたいものだ。
日常生活での些細な選択だったとしても、1つひとつ自分で判断して決めている人は、きっと仕事でもキレのある判断力を発揮できるようになるのだろうと近頃は思う。
(もちろん、たまたま自分以外に良案を持っている人がいた場合とか、自分がゲストとして迎えられるような場合とか、そもそも決定権は自分にない場合もある。そんな場合も決定に至った背景を理解しておくことは重要だ。)
よくよく考えてみれば、現代の日本に住む我々が選択に悩む場合なんていうのは、たいてい贅沢な場合だ。繰り返し言うが、悩みが贅沢すぎる。
自分で選べるというのは自由な証拠で、本来幸せなことだと思う。
人間は愚かなもので、この状態が長く続くとそれが面倒臭くなるようだ。
夫が妻に夜ご飯の希望を聞かれて「何でもいいよ~」と答えてしまうとか、あるあるだと思うが、ちょっとした決定権を手放して、自分で決めようとしないのは、ただの怠慢なのだと思う。
選挙の投票率が低いのも似たようなもんだと感じる。誰かが決めてくれるっしょ、なるようになる、という感情から、自分で決めようとはしない。
活き活きと自分の人生を生きるためには、自分で決めることが何よりも大切なのではと思いながらも、長いものに巻かれるサラリーマンでした…。
では。